3月14日に映画『π』(98)のA24版デジタルリマスター版が劇場公開になるそうです。
自分がこの映画を観たのは、某理系私大の学生だった頃でした。
フェニル基を持った有機化合物のねじれ角ポテンシャルパラメータだか何だかを算出する作業に明け暮れていた時期で(卒業研究のテーマがそんな感じの内容だったのです)、毎日研究室でも自宅でもPCの画面で数字とにらめっこしていたので、『π』の主人公マックスの苦悩が他人事とは思えなかった。
この映画を観たあと「あまり根を詰めて実験したり測定したりすると病んでしまいそうだから、程々にしておこう…」と思った次第です。
この時期はテクノ系のアーティストのアルバムをよく聴いていたし、『ワイプアウトXL』なんかでもよく遊んでいたので、オービタルやマッシヴ・アタック、エイフェックス・ツインらが参加した『π』のサントラは大変魅力的で、映画を観る前に購入しました。
「踊れるテクノ」というよりも、実験音楽色の強いIDM(インテリジェント・ダンス・ミュージック)のコンピレーションという内容。ちなみにポップ・ウィル・イート・イットセルフ(以下PWEIと表記)のことをよく知らなかった自分が初めて買ったクリント・マンセルのサントラでもありました。
で、先にサントラを聴いて映画本編を観たら、劇中で使われていない曲がいくつもあったのでした。
「え? これインスパイア盤だったの?」と思ってサントラ盤をよく見てみると、「MUSIC FROM THE MOTION PICTURE」ではなく「MUSIC FOR THE MOTION PICTURE」と意味深長なことが書いてある。
この記述は一体…!? としばらく悩んだものの、答えが見つからず、その後すっかり忘れておりました。
しかしリマスター版が公開になるということで、ちょっと調べ直してみることにしました。
π(パイ) ― オリジナル・サウンドトラック – amazon
どうも監督のダーレン・アロノフスキーとしては、『π』の音楽はマンセルにオープニングタイトル曲だけ書いてもらって、あとは既存のテクノ/エレクトロニカを使う構成を考えていたらしい。でもこの映画はとにかくお金がなかったので、映画の中で曲を使うための権利の取得が難しくて断念したのだそうです。
その結果、Banco de Gaiaの”Drippy”, Orbitalの”P.E.T.R.O.L.”, Autechreの”Kalpol Intro.”, Spacetime Continuumの”A Low Frequency Inversion Field”, Massive Attackの”Angel”が何とか使えたと(劇中ではテクノ系ではない既製曲も数曲使われていた模様)。マッシヴ・アタックの”Angel”は本当に映画のサウンドトラックで使われる機会が多いですね。
で、久々に本編DVDを観直してエンドクレジットも確認しましたが、サントラに収録されているエイフェックス・ツインの”Bucephalus Bouncing Ball”, ロニ・サイズの”Watching Windows”, デヴィッド・ホルムズの”No Man’s Land”, GUS GUSの”Anthem”, Psilonautの”Third From the Sun”は映画では使われなかったと。
…とまあこういう経緯があったので、『π』のサントラ盤はインスパイア盤というよりも、「映画の中で使った曲」と「お金に余裕があったら映画の中で使いたかった曲」を収録したアルバムだったのではないかなと思うのです。それがMUSIC “FOR” THE MOTION PICTUREという記述に現れているのかなと。
なお既製曲が使えなかったパートは、結局マンセルがスコアを書き下ろすことになりました。
サントラ盤に収録しているのは、オープニングタイトル曲の”πr2″とエンドクレジット曲の”2πr”、株屋マフィアっぽい謎組織の女ボスのセリフをサンプリングしたスコア”We Got The Gun”の3曲。劇中ではほかにもマンセルのスコアが使われていたので、デジタルEPでもいいからマンセルのスコアアルバムを出してほしいものです。
『π』はマンセルとアロノフスキーの初タッグ作品となったわけですが、当初アロノフスキーはマンセルがPWEIのメンバーだったということも知らなかったそうです。
マンセルの当時のガールフレンドが『π』のプロデューサーのエリック・ワトソンと知り合いで、「映画を作っているならクリントと会うべきよ」と推薦したので、ワトソンを介してアロノフスキーと対面することになったのだとか。
そしてアロノフスキーとマンセルは「最近の映画音楽はつまらない」「『ハロウィン』(78)と『ジョン・カーペンターの要塞警察』(76)の音楽は最高だ」という話で盛り上がって意気投合したそうです(マンセル本人が本国メディアのインタビューでそう言ってた)。
カーペンターの『要塞警察』の音楽はヒップホップ系アーティストから絶大な支持を集めているし、アロノフスキーも細かいカットをリズミカルに繋げる独自の映像テクニックを「ヒップホップ・モンタージュ」と命名するぐらいのヒップホップ好きなので、ヒップホップの要素も強いPWEIで活動していたマンセルの音楽性とも相性が良かったと思われます。なおマンセルは『π』の劇中に学生フォトグラファー役で出演しています。
マンセルはクラシック音楽や映画音楽の正式な教育を受けていないのだけれども、本作以降どんどん経験を積んでいって、オーケストラスコアも書ける立派な映画音楽家になりましたね…(オーケストレーターやアレンジャーは使ってますが)。